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緩慢な動きで時が刻まれる現界。その唯中へと、『彼』は物音ひとつ立てる事無く姿を現した。
その顕現はあまりにも静かで干渉も無さ過ぎて、きっと誰ひとりとして気付くモノはいなかった事だろう。ヒトたる事を辞め、既に肉体すら存在せず、それどころか存在確率自体が0と1の狭間にある様な身である。世界の事象に『彼』が自分自身の行動で何らかの影響を及ぼす様な事は無きに等しい。まず何より、『彼』が理の歯車としてではなく彼自らの意思で何らかの干渉などしようとする筈も無い。全ての望みを叶える〝魔法そのもの〟と化したとはいっても、万能の神――といっても神は神で色々と制約も多いらしいが――になった訳ではないのだ。ようは便利な〝道具〟と変わりはしない。目的を持って使う者がいなければ道具だけで何が出来るというのか…つまりはそういう事である。
ともあれ、『彼』は白の塔以外の場所へと久方振りに足を踏み入れた。
(……どれ程振りかな)
ささやかにしろ劇的にしろ、他に変化を齎す事はあれどあの場所自体は変化とは無縁な場所だ。今回の様に敢えて同期でもさせない限り刻まれるべき時は無く、『彼』やその端末達以外には幻の様な夜空しか存在しない。繋がりのある次元や世界は多々あれど、どの影響も基本的には受け付ける事無くただありのままに存在し続ける。そんな場所から見れば、今降り立ったこの地は随分と賑やかかつ騒がしいモノに『彼』には見えた。
かつてはこういった絶えず変化を続ける場に自分が存在していた時期もあったとはいえ、最早その時の記憶や感情すら風化して久しい。意思ある理と化してから言えば、こうやって直接的に世界の唯中に降り立つ事自体も稀だった事もあって何だか知らない場所に迷い込んだ異邦人の様な気分である。
(ま、異邦人である事には変わりは無いのだろうけれどね)
本来、内側に存在するべきではない自分という存在は〝世界〟にとって確かに異質であり異物でしか無い。早く用事を済ませて退散するのが吉だろう。
気分を切り替えて『彼』は周囲を軽く一瞥する。
そこは、酷く味気のない温かみの少ない場所だった。
無機質な壁や天井に、これまた同じ様な色合いのタイル貼りの床。天井から伸びるアームに繋がる無駄に明るい照明器具。点滴用だろう血の詰まった袋を吊り下げた台。時の緩慢な世界でもゆっくりと計測数値を吐きだす血圧計や分娩監視装置。それ以外にも取り上げた子供の為だろう小振りの寝台、いざという時の為に用意されている酸素ボンベらしき物、何に使うのか良くわからない機材を乗せた金属製の台などがチラホラと見受けられる。
そしてそんな雑多な部屋の大部分を占めているのが分娩台なのだろう、ベッドとしては少々異質な形をした寝台だった。上には白の塔に残して来た彼女の身体が寝かされているのが確認できる。その周囲には出産の補助を行う医師か何かなのか。何人もの人が屯し、スローモーションで再生する動画のワンシーンの様な緩慢な動きで各々の職務に励んでいた。
その誰ひとりとして、場違いにも出産現場に現れた部外者に気付いた様子は無い。
それを疑問に思う様子も無く当然の様にその場に在る当の部外者は、紫紺の双眸を軽く細めてゆるりと首を傾げた。
(やっぱり……微かだけれど感じる。此処に居る。…でも、誰だ?)
ほんの少しだけ、感じるか感じないかといったぐらいの微かなものだけれど。
希う強い意志。気のせいでないならば、ゆっくりと時が経過するごとにその強さは増している気がする。
しかし如何にもはっきりしない。近い事は分かるのだが、あまりに微かなモノ過ぎて、誰の願望なのかがはっきりと判別出来ないのだ。
少なくとも、この場に居る医師やスタッフらしき者の中からそれ程強い願望を感じ取る事は出来ない。となると直ぐ外だろうか。振り返る。
眼前には重々しい金属製の分娩室の扉があった。その向こうに数名の人間の存在を感じ取れる。一度確認しておくべきかと歩を進めた。わざわざ扉を押しあけたりはしない。現在の時間の流れの中では開くまでにかなりの時間がかかってしまうのだから、そんな非効率的な事はさらさら御免である。だいたい元より実体など存在しない身だ。障害物というモノ自体が合って無き様なモノである『彼』は、表情一つ変えずに分厚い鉄の扉をあっさりとすり抜けた。
扉の先はリノリウムの床が延々と続く病院らしい廊下だ。随分と薄暗いのはこの世界における今の時刻が深夜とも早朝とも言える時刻だからだろう。シンと静まりかえっていて、カチコチと高い位置にかけられた時計の秒針の動く音が良く響く。そんな廊下の扉にほど近い壁際には横長のベンチが備え付けられており、先程感じた気配の主だろう――何人かの人影が見えた。
夫であろう年若い男性が一人と、親族か何かなのだろう初老の男性二人に女性が一人という組み合わせである。誰もが誰も、不安そうな心配そうな表情で沈黙を守っている。中でも、夫であろう男はというと落ち着きの無い様子で腕を組み視線だけで時計を見ては分娩室の方を見て…という動作をしている最中であった。彼等を一瞥した『彼』は、しかし不満げな表情で一つため息をついた。
(……違うね)
中で無いなら外の誰かかと思ったが、どうも違うようだ。
確かにそれぞれにそれぞれが強い願いを抱いてはいる――無事に生まれてきて欲しい…だとか、早く生まれないものか…だとか、まあこういう時にお約束のモノだ――もののそれほど大した強さでも無いのだ。先程感じていた微かな意志の方が余程強い。その意志の声が遠くなった事からしてもやはり、彼女を代理で送りこんできた誰かは分娩室の中に居るという事で間違いは無い様である。
しかし、分娩室の中に他に該当しそうな人物は誰ひとり居ないのは先程の走査で既に分かっている事だ。一体これはどういう事なのか。再び分娩室へと戻りながら思考を巡らせる。
(彼女を排除しようとする者の妨害工作…? いや、それならば別段僕の所へ送る必要なんて無い。もっと単純かつ簡単なやり方なら幾らでも存在する。まず、そんな風に正規の方法以外で接続する事は…僕が許していない限りはっきり言えば殆ど不可能。それに、当人が僕と接触を持つという事ならまだしも…他者の精神を送りこむ何て無理な話だ。大体、どんな方法にしろ僕と接触出来るなら願望を叶えてもらった方が得だしね。……となると、これは自分の得の為じゃなく彼女の為に成された事というコトだ)
しかも、もしもの話だが。出産中というあまりにもふさわしく無いタイミングにも関わらずこんな事が行われたという事は、逆にいえばこのタイミングでなければ駄目だったのでは無かろうか。そう考えると少し違う視点が見えてくる。『彼』は分娩室に屯す白衣の一人へと手を伸ばした。現在の彼女の状況を知るには、出産中という状態で意識が朦朧としているだろう本人よりもその場に最初から居合わせた者の記憶を読むのが一番早い。
軽く、本当に軽く。一瞬かそれより少しだけ長い時間だけ手近な人間の肌に指先を触れさせる。たったそれだけながら『彼』からすれば接触としては十分だ。一気に雪崩れ込んでくる〝記憶〟という情報をコンマ秒単位の刹那の時間で全て閲覧してしまえばようやっと理解がいった。成る程。確かに、コレならば仕方が無い。
(彼女を救う為には、このタイミングしか有り得なかったという事だね。となると……)
最早、誰が原因なのかなど分かったも同然だった。居場所も既に分かっている。願望だってそこに意識を向けるだけで明確に聴き取れた。
最後の確認という事で、先程までは朧にしか認識できなかったその声に改めて耳をすませる。
(嗚呼やっぱりね。……ならばもう此処に用は無い、かな?)
全てわかったからには戻るとしよう。これ以上の負担は、残して来たフィアにとって精神的にも肉体的にも辛いモノとなってしまう筈だ。
そうと決まれば動きは早い。場違いな部外者の姿は、瞬きするよりも刹那の間にあっさりとその場から消え去っていた。
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