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一瞬耳を掠めた囁き。
ヒトの無意識の願望を叶えるという、魔法それそのものと化した青年の言葉は、フィアからすると想定外のものでしかなかった。
「………、ぇ…?」
今、何と言った…?
思わずフィアは聞き返した。それに対して『彼』は何と説明したものかと悩んでいるかの様な複雑な表情で暫し思案した後に、言葉を選びながら口を開く。
「君から叶えるべき願望を読みとる事が出来ないんだよ。顕在意識は勿論だけれど潜在意識においても、ね。……気のせいかとも思ったけれどこうやってしっかりと相対してみれば良く理解る。君は本来、此処に来るべき資格が無いんだ」
「そ、それって……結構マズい事なんじゃ無いの……?」
「うん。正直言えばかなり拙い」
青年はひとつ頷くと、ため息をひとつこぼした。
「こんな事は前例が無いんだ……此処に、この場所に、訪れる者の精神を縛るのは当人が持つ強い願望の存在だから。これが叶うにしろ叶わないにしろ、何らかの形で消化されない限りは元の世界に精神を還してあげる事が出来ない。還してあげたいのはやまやまだけれど、出来ないんだ。僕はそういう存在だからね」
どうしたものかな、と呟いて『彼』は思案を巡らせる。
「理にバグでも生じたという事…? いや、それならば僕が感じられない筈が無い。転化したばかりの頃ならばまだしも、既に根幹部分と同化して長いんだしどんな些細な異変でも感知出来ない筈が無い。まして、こうやって時間をとって洗い浚い全ての事象に対して走査を行った上で見逃す筈も無い。となると…別の理由があるという事になる、けれど……」
最早、理解不可能な独り言が羅列される中でフィアは途方にくれた。
一体どうしたものか。殆ど何も分からない中で少なくとも分かるのは、このままではこの世界に自分の精神は囚われたまま戻る事が出来ないという事だ。表情を陰らせる。
(私が此処から戻れなかったら、一体どうなるの……?)
此処にいる間、本来の世界に残されたままの肉体に影響は無いとさっき言っていたが、それでは戻れなかった場合自分はどうなってしまうのだろうか。死んでしまうのか? それとも魂が抜けた様な、植物人間みたいになってしまう? いや、問題はそれだけではない。今の自分は現在進行形でとても大きな問題を抱えているのだ。
(お腹の、子供は……)
そう…出産中の子供はどうなってしまうのだろう。母親が、こんな事になってしまったら……。
最悪の事態を考えたフィアは全身の血が一気に引いていくのを感じた。
駄目だ。それだけは認められない。もしも自分の命と引き換えになるとしても、子供の命だけは助けないと。
「あの…っ!!」
思わず声が出た。
「あの…その……私には貴方が言う諸々の殆どは分からないけれど…! 私に、何か出来る事って無いのかしら…!」
出さずには居られなかったのだ。
あのままじっと事態が動くのを待つなんて。手を拱いて見ているだけだなんて、そんな事は許せなかった。
(だって私は母親だもの…! 母親が子供を護らないで、誰が護るって言うの…?)
「君に出来ること、か……」
緩く握られた拳を軽く口元に添えるという風に思案に耽っていたらしき『彼』は、申し出の声に顔を上げる。宵闇にも似た紫紺色の瞳に覗き込まれ、フィアの蒼い瞳が不安げに揺れた。
そのまま、たっぷり十秒間。
二人は見詰めあう。
それはほんの少しの時間だ。しかし、その沈黙の十秒間に魔人は何かを決めたのだろうか。一度伏せられ、しかし再び開かれた眼差しは先程までとは明らかに異なっている。そこに宿るのは逡巡ではなく、それを振りきったうえでの決意の意志だ。
「……正直、かなり危ない橋を渡る事になる。それでも構わない?」
「構わないわ。それが少しでも役に立つのなら」
「分かった。じゃあ、」
サッとその手が振られれば、眼前に白いモノが滑り込んでくる。見ればそれは先程フィアが目を覚ました際に寝かされていた浮遊する寝台だ。『彼』は細い指先でそれを指し示す。
「きっと君は立っていられなくなる。その前に、座るなり何なりしておくと良い」
「……何をするつもりなの?」
確信を持って告げられる言葉に眉を潜めるフィア。寝台へと腰掛けながら首を傾げる彼女に、無造作に告げる。
「ロクでも無いことだよ」
右手が緩く握り込まれ親指に中指が添えられる。それを怪訝げに見詰める姿に、『彼』は小さく肩を竦めて見せた。
「君は、自身に資格が無いにも関わらずココに居る。その原因が君に無いならば考えられる可能性はたったひとつだけ。――…間接的に君をここに寄越した誰かが居る、という事だ。前例の無い話だけれどね」
「それは誰…?」
「さあ、誰だろうね? 少なくともあまりに情報が少なすぎるから判断は難しい。ただ、少なくとも君の側には居る筈だ。……それを炙り出す」
「どうやって?」
「時を動かす。…さぁ、いくよ?」
それは一体どういう事なのか。
どんな影響が出ると言うのか。
それら諸々を問うより尚早く――…
――…パチンッ
指が鳴る鋭い音が響き渡るのと同時。
先程まで何とも無かった下腹部に走った気が遠くなりそうな激痛に、フィアは身体を震わせ息を呑む。寝台の端に手をかけて崩れ落ちそうな身体を必死に支えるがその華奢な腕がガクガクと震えて止まらない。
(なに、これ…っ!? 何で、今……!?)
その激痛は、正しくここに来る直前まで自分の身を苛んでいたものと同じもの――陣痛の、産みの苦しみだ。必死に息を整えながらソレに耐えるフィアへ『彼』は言う。
「本来ならば僕の前にヒトが招かれている時…その精神、或いは魂と呼称しても良いかな? 何にしろ、ソレが抜けた肉体が存在する世界の時は止まっているのが普通なんだ。空っぽの身体はそのまま放置し続ければ自然と弱っていって最終的には死んでしまう事だってありえるから。勿論、完全に切り離された訳ではないから多少の繋がりはまだあるんだけれど、それでも命の維持には心許ないレベルだしね。願望を叶えに来て悩んでいる間に死んでしまっては意味がないでしょう? こちらとしても命を奪うのは本意ではないし、それでは強制的に対価を貰いすぎてしまう。そんな事態を防ぐ為の防御機構だと思えば良いかな。
……ともあれ、それを一時的に解除したんだ。今、この空間は君の本来の世界と同期して時を刻んでいる。とは言っても、君の必要以上の消耗を防ぐために通常の数十分の一の速度で…だけれどね。そして、今まで止まって居たからこそ感じなかった痛みを、君は容れモノと辛うじて繋がっている感覚越しに受け取っている訳だ。……やっぱり寝台を用意して正解だったみたいだね、その様子では」
苦笑する青年に言葉を還す余力もない。それどころか最早身体を起こしておく事自体が辛い。ぐったりと寝台に身を横たえ早く浅く呼吸を繰り返しながら、フィアはふと脳裏をよぎった疑問を意識する。確かに初産でもあるからか産みの苦しみはかなりのものだ。ここに来るまでも、このまま死ぬんじゃなかろうかと朦朧とする意識で考えた程である。
だか、しかし。
(こんなに…苦しいもの、だった……?)
何だか違うのだ。
例えば、痛みの感覚はもっと早かった気がする。寄せては引いていく波のようだった筈だ。それだというのに、今感じる痛みはジワジワと強まるばかり。まるで津波の如く絶えず波が押し寄せ続ける様な感覚は、正直言って気を抜く余裕すら与えてくれなくて浅い呼吸をするので精いっぱい。ぎゅ、と寝台の上に広がるシーツを握り締めてただただその痛みを必死に耐える。
「時が通常の数十分の一で刻まれるという事は、即ち時が引き延ばされているという事。その分…痛みの感覚も長くジワジワと来ているんだろうね」
産みの苦しみを現在進行形で味わっているフィアを見降ろす『彼』は、複雑な表情を浮かべると頬を一度労う様に撫でた。
踵を返す。
「さて…と。それじゃあもう暫く我慢していて。行ってくるから」
「ど……こ、へ……?」
息も絶え絶えになりながらの問い掛けに、しかし彼は振り返らない。
しかし声だけは帰って来た。どこか場違いに楽しげな声音は告げる。
「君の容れモノがある、あの場所まで。……ちょっと、ね」
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