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懐かしいあの街を旅立って、此処へ定住を決めて。
それから何度目の春を迎えただろうか。
決して狭くは無い広さの庭のあちこちに絶妙な配置で植えられている桜の樹を見上げながら、ふと思ったのはそんな事だった。
その眼前、風に揺れる枝にはもう綻ぶのも間近だろう蕾が幾つも見えて、こんな高山にも春の訪れが近い事が窺える。だがまだ風は微妙に寒い。麓の町ならばもう春も真っ盛りなのだろうが、かなりの高地に位置するこの里は他より季節の訪れが遅いのだ。仕方のない話だろう。
とはいえ、今日は思いの外冷えるようだ。腰より長い黒髪を揺らす風の冷たさに少しだけ身を震わせて、一応持ってきていた上着を羽織る。風邪をひくと煩いのが周囲には多いというのもあるが、やはりそれよりこの風はまだ少し厳しい。若いころならまだしも、もう自分も年なのだから無理をしてはいけないだろう。
ゆったりとした作りのその上着は、薄さの割に保温性能は良いものでそれだけで鳥肌の立つような冷気は消え去ったかのようにすら感じた。適当に部屋にあるものを持ってきたのだがどうやら当たりだったようだ。ほっと息をつけば、再び桜の枝を見上げる。
この花は何時頃咲くのだろうか。
あと数日か、それとももっと温かくならなければ駄目だろうか。日差しはすっかり春のそれだが、気温ばかりはなかなか上がらないこの里なら、もう半月は咲かなくてもおかしくは無い気もする。ならばいっその事一カ月は咲かなくても良いんじゃなかろうか、と勝手な事を考える。ちょうどその頃になると、普段は静かな里にちょっとしたお祝い事があるからだ。祝いの席に満開の桜。想像すればそれはとても似合っていて、うんそうしてもらいたい…などと思うが結局のところ自然のなす事なのだから、自分程度がどうこう出来るものじゃないだろうという結論に達した。
まぁ、成るようにしか成らないのだろう。暫くは様子見するしかなさそうだ。
「……! やっと見つけた!」
…と、そんなどうでも良い他愛もない物思いは急に響いた声に中断された。
視線を向ければ、厳しい顔をした兄の姿がある。どうやら自分の事を探していたらしい。
「まったく、勝手に出歩いては駄目だとあれほど言われてただろうに。しかも、こんな廊下の吹きっ晒しにいるなんて。その脱走癖、そろそろ直すつもりは無いのかい?」
「ほんの少し、散歩したかっただけだ。直ぐに戻るつもりだったんだが……」
「ほんの少し、で一時間以上留守にするのは流石に長過ぎるよ」
「一時間も? …そうか、もうそんなに経っていたのか」
「自覚、無かったの?」
「……あったらこんなに長居なんぞするものか」
先程までの厳しい顔は直ぐに崩れるも、呆れた様な目をされた。自分が逆の立場ならば確かに呆れるだろう。自業自得だとばかりに甘受する。それにしてもわざわざ探させてしまったのだろうか。見れば少し息も荒い。あちこち走りまわったのかもしれない。
「何にせよ、心配をかけたようだな…すまない」
「反省してるなら構わないさ。……さあ、部屋に戻ろう。まだ肌寒い風も吹くし、身体に良くないよ」
一応まだ長として忙しいだろうに、こんな事に時間を使うのは良いのだろうかとは思うが、主原因は自分なのでその言葉は呑み込んだ。無言で、先を行く兄の後をゆっくりとついていく。部屋までの道のりは遠い様で実はそう遠くもない。実際もう直ぐそこに扉が見えている。あと数歩も歩けば到着だ。
このまま何事もせず部屋へと戻ろうかと思っていた。しかし。
「なあ、アレイク」
先を行く、自分より幾分高い位置にある少し広い背中を見。一瞬浮かんだ言葉にできない感情。
それに突き動かされるようにして、思わず開いた口は、ひとつの疑問符を投げた。
「……私は、あの桜が咲く所を、見る事が出来るだろうか?」
…嗚呼、聞くんじゃなかった。後悔が胸に去来するが今更遅い。目の前、扉のノブに手をかけた所で動きを止めた兄はそのままの姿で動きを止めている。振り返りもしないせいで、表情は窺えない。とはいえ、何となく察するものはある。これでも長い付き合いなのだ。わからない筈もない。
「……すまない。馬鹿な事を聞いた。忘れてくれ」
絞り出すようにして何とか謝罪を口にした。ゆっくりと振り返る兄の顔を見るのが怖くて俯いていると、頭部に響く軽い衝撃。頭を軽く叩かれたらしい。思わず見上げた先には、仕方が無いなあとでも言うような表情を浮かべた紫紺の双眸。目を瞬かせていると、兄は微苦笑を浮かべて見せた。
「何だかんだで一時間もほっつき歩いてたんだ。少し疲れたんだろうよ。……少し休むと良い」
「あ、ああ…」
「ちゃんと寝てね。また脱走しないように」
「……わかっている」
「よろしい。…じゃあ、おやすみ。また夕方頃に起こすよ」
部屋に戻されそんな会話を交わして、兄はパタリと扉を閉めた。
足跡が遠ざかっていく。それが聞こえなくなった所で、詰めていた息をホッと吐いた。正直、怒られるかと思っていたのだ。本気で。でも予想外に静かな反応だった。逆に静かすぎて気味が悪いぐらいに。その事が喉の小骨のように意識に引っかかる。
……何かあるのだろうか。ベッドに戻りつつ思案するが、兄の考えなど読めるはずもない。
「……こういう時は、双子なのにさっぱりわからん……」
ため息と共に呟いて。
しぶしぶ、瞼を閉じた。
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